ひとりがたり

日常のもの・こと・妄想など

1.読書中毒の人

たとえば、音というものが目に見えた場合の話をしようか?
それはきっと、無数の透明な光の渦だ。
何本もの光の筋が複雑に絡まり合い、干渉しあい、束になって鼓膜をふるわせている。
つまりはそう言うことだ。
目に見えなくとも確かに存在している。

読書中毒のように私は本を読みあさった。
ように、ではなく私は読書中毒なのだ。
本屋に入り、光の筋を追う。
獲物を探す目。
大体文庫には大まかな本の内容が裏表紙に載っている。
文庫ならそこを読んでお買いあげ。
ハードカバーは、新聞や雑誌を見たときに大体の紹介がのっている。
けれど、実物の文章を少しだけ読んで購入を決定する。
文章がいくら読みづらかろうと、読み進める内になれてきて面白くなっていくものもある。
本は生きている、と思う。
文章は生きている。
生きた文章を書くことがどんなに難しいか。
生きた文章というのは、読んでいて心地が良い。
眠りから覚める少し前に見ていた夢の心地に似ている。
本を読んでいると人間の脳の作りに感心してしまう。
文章を読みながらその文章のシーンを脳内で映像化し、再生する。
同時に、次の駅はどこだという認識が出来、音楽が聴ける。
脳内で映像化したものとは別に、視覚情報として本やまわりの景色が網膜に映し出される。
さらに、触感、味覚、食感、など、脳はもの凄い量の情報をいっぺんに処理できるんだな、といつも感心してしまうのだ。
よく、脳がフリーズしてしまわないものだ。
しかし、さらに凄いところは意識すればそれら全てをシャットアウトできてしまうと言うことも感心すべき点だ。
話を元に戻そう。
私は読書中毒だ。
仕事中毒よりも質が悪い。
読書中毒であって、本マニアではないので紙質、体裁、表紙などにはこだわらない。
どんな形の本であろうが、多少文句は言うものの面白ければ読んでしまう。
とある本の登場人物が、面白くない本なんて無い。
と言っていた。
確かに、そう思う。
面白い、面白くないは一個人の独断と偏見と好き嫌いによるもので、どんな人間が書いた文章でもぴたりと波長が合えば面白いのだ。
それが、万人受けするかどうかはさておいて・・・。