ひとりがたり

日常のもの・こと・妄想など

96.溺れる魚

あの少年の顔が、今でも目に焼き付いている。
正しくは、目ではないのかもしれない。
だって、俺は死んでいるのだから。

彼の手をひいてあるっていた男、おそらく彼の父親だろうそいつが俺を殺した犯人だ。
あの時聞こえたのは、彼女の声と男が俺の体に差し込んだナイフの抜けていく音。
傷口はズキズキと熱くて、痛みは感じなかった。
ただ、とても熱くてやけどしたようなそんな感覚で体を伝っていく熱い液体が俺の血だと知ったのは、何が起きたのか確かめようとして背中に手を回したときだった。
男は、俺のことを冷たく見下ろしている。
口元が笑っている。俺が苦しむ様を心底楽しんでいた。
体から血が抜けすぎて、指先の感覚すらなくなった。
ただ寒くて、音も聞こえない。
最後に見たのは、あの少年だ。
何が起きたのか、理解不能って顔してて、半分死んでるような顔だった。
多分、あの少年はあのあと壊れてしまったんだろうな、と思う。
俺にはとうてい分からないことだけど。

俺は少年の瞳を見つめたまま、体中のすべての器官が停止するのを感じた。
不思議なもので、意識はないのにそのあと起こったすべての出来事が俺の目に映っていた。
暗闇が訪れ、次に気がついたのは暗い滝壺の中だった。
透明な青緑色の中で俺が浮かんでいた。
俺は、俺の体の中の意識のはじっこに膝を抱えて座っていた。
体はただの器にすぎない。
開けたままの瞼から月光が差し込む。
そっとのぞき込むと、人影があった。
それは、青緑色の綺麗な瞳で、全身黒づくめの男だった。
そいつは俺に向かって、冷たく笑っている。
黒い髪の間から見える、瞳はまったく笑っていなかった。

「俺に、気がついた?」

男が俺を見つめる。

「ここはどこ?」

男は冷たく見下す。

「滝壺、お前が居るのは、滝壺じゃなくて、俺と、お前の体。」
「やっぱり死んだんだ・・・お前も、死んだ?」

意識のはじっこに座ったまま、俺は男を観た。
男は少しおかしそうに、だが、まじめに答える。

「あぁ・・・死んだ、俺も、お前も」
「そう・・・」

ゆらゆらと浮かぶ体月光の差し込む瞳の内側からそいつを観る。

「出て来いよ」
「出られないよ」
「俺は出られた」
「あんたは、何者なんだ」
「俺は・・・」

男が言いかけたとき、俺は、男の顔が俺そっくりなのに気がついた。

「あんたは・・・俺?」

死んで、こんな目に遭ってるから、別にそいつが俺でもあまり驚かない。

「あぁ・・・俺は、お前の悪意」
「悪意・・・」

口にした瞬間、俺の体が楽になった。
ふっと足元を見ると、先ほどまで俺が閉じこもっていた体がゆらゆらと水の中に浮かんでいた。
それはまるで、魚が溺れて死んだようだった。