ひとりがたり

日常のもの・こと・妄想など

写真と詩について6

始まりの始まりは、中学2年の頃、幼なじみの撮った写真に詩を載っけさせてもらったことだった。
彼女の写真はとてもきれいで空の写真が多く、とても感動したので何枚かもらって、大学ノートに張り付けて言葉を載せた。
当時の私はこずかいが少なく使い捨てカメラを買えても現像に出す資金がなかったのもあるが(その少ないこずかいをほとんど天文雑誌につぎ込んでいた)自分の写真に自信も興味もなかったので、彼女の写真を譲ってもらっていた。
彼女の写真をは空のいろいろな表情を写し取り、私の言葉は私の心象風景を写し取っていた。
毎日、何とかそこに立っていた私たちは、毎日空を見上げていたのだ。
こんな風にいったら、怒られそうだ。
今は、そうじゃないから(親友へ語弊があるようならいってくれ)。たぶん。親友なんていったら、怒られそうだ。
高校に入って、別々の高校にはいってなかなかあえなくて、それでも時々写真をもらって書いていた、けれど、当時友達連中でホームページを立ち上げるのがはやっていて、私も立ち上げることにした。
はじめの内はコンテンツ内に詩と写真はなかったのだが、幼なじみの彼女の助言を受け自分で写真を撮って書き始めた。
その始まりが、『はじまりのうた』の写真。
詩は当時のものではない、なぜなら、当時の自分の心象風景はとても人に見せられたものではないからだ。
なんというか、そう、若気の至り。
青臭い文章で、ねちねち鬱に陥るような文章を書いていた(笑)
今もたいして変わらないかもしれないけれど、少しは学習したつもりである。
しかし、古い作品を読めば読むほど、痛々しいと感じるが、勢いがあるように感じるのは年齢のせいかもしれない。
当時の作品は小説もマンガも洗練されてはいないが、読者を引っ張るパワーだけはあるのだ。
あのパワーを今そそぎ込めといわれたら、たぶん無理だろう。
それこそ倒れてしまいますよ。
でも、今あのパワーをそそぎ込めたら、プロになれるかもしれないが、かたひじはって生きていくのはイヤなので、気が向いたら同人イベントで売りまくってくるぐらいがちょうど良い。
肩の力を抜いてマイペースに。
それが今の自分であり詩と写真のあり方である。