ひとりがたり

日常のもの・こと・妄想など

7.毀れた弓

少し遅めに、家を出た。
その日は会社に行きたくなくて、はじめて無断欠勤をした。
雨が沢山降っている。
僕は傘を差してバス停で、どきどきしながらバスを待った。
誰かに見つかるんじゃないかって、わざと傘を深く差して、俯いて携帯をいじっていた。
もうすぐバスが来る頃だ。
緊張で、気持ち悪くなる。
嫌な鼓動がランダムに僕を締め付けた。
しばらくするとバスが止まり、僕はそのバスに乗りチケットを受け取る。
ピンクの白い紙切れには8番と書いてあった。
後ろから3番目のシングルの席に座る。
朝だから、結構人がいる。
僕は鞄を抱きしめ、上着の袖を握る。
雨が酷くてよかった。水滴で外が見えない。
僕はそれでも俯きながら、殺人事件の犯人のように、駅までバスに揺られた。
バスを降りて、駅を歩く。
適当に切符を買った。
本当は、山の方へ行く予定だったんだけど、この雨だから止めた。
雨じゃなかったら・・・って思うと、僕は今でも少し残念な気持ちになる。
コンビニで1万円だけおろして。
切符を握って、僕は電車に乗り込んだ。
行き先不明。
ただ僕が分かってるのは、この逃亡劇は僕が死ぬために存在してるって事。
電車が走り出す。
行き先を決める。
東京国際フォーラム
死ぬ前に人体の不思議展がみたい。やっておきたいことはたくさんある。
おかしいな、何で、やりたいこと全部しとか無かったんだろう。
とりあえずそのうちのひとつを消化する。
僕はどきどきしながら国際フォーラムへ向かった。

ここでもチケットが必要だから、僕はチケット代を払い会場へ入った。
標本用の防腐処理をされた、人間が並んでいる。
僕は、多分、他人が観たら、今にも死にそうな顔で、其れを見つめていた。
沢山の病気、血管の標本、脳の標本。
僕はそれらを観て、ちょっと馬鹿らしくなる。
腕なんて切ったって死ねるわけがない。
こんな小さな脳に自分のすべてがゆだねられている。
今、この思考でさえ、脳の中の神経伝達物質の電気信号で出来ている。
馬鹿らしい。
僕は歩く。
一通り見終わって、お土産コーナー。
どうせ、僕は死ぬんだから、何も買わない。
外にでて、空を見上げる。
何もない、白い雲が広がり、雨が僕に向かって降ってくる。
僕だけが不健康な、青白い顔で、其処を歩く。
別におなかなんて減ってなかったけど、最後に食べるなら、あのエビフライだ。
僕は、また電車を乗り継いで、エビフライを食べに行った。

一皿に2本、巨大サイズのエビフライが尾頭付きで入ってるランチ。
僕は別にお腹なんて空いてないし、これからしなくてはならないことを考えると、とても食べる気はしなかったけど、これが最後の晩餐とばかりに、エビを口に放り込んだ。
馬鹿らしい。
自分のやってることのばからしさに、複雑な気持ちになる。
本当に、食べる気はしなかったけど、僕はエビフライのランチを平らげた。
そこで、家からの電話。
でるわけがない。
それから、一時間に何度も、何度もメールや、電話が来て、僕は泣きたくなった。
何で、僕のことを気にするの。
今まで、僕のささやかな叫びですら聞かなかった癖に。
僕の言葉にすら気が付かなかった癖に。
僕なんて、いなかった人間と同じだろう。
今更平らげたエビフライが胃に重い。
外にでて、空を見上げる。
何も変わってない。
僕は、メールや電話を無視して、本屋に入った。
何故、電源を切らなかったのか、不思議だ。
多分、どこかで僕はまだ希望を持ってたのかもしれない。
最悪だ。
僕は、本を選ぶ振りをしながら、本屋の中をうろうろするだけだった。
何も考えられない。
もう、死ぬことしか。
読みかけの本が鞄に入っていたのを思い出して、最後まで読む。
抹茶オレを飲みながら、ひたすらメールを無視し、読み進める。
何時間かして、読み終える。
何も、考えられない。
とりあえず、歩く。
このまま歩って、帰えれたら自分にはまだ生きる望みがあると、そう思った。

暗くて、危険そうな道を選んであるった。
空を見上げると、群青色に変わっている。
明け方に僕が怯える空と同じ色だった。
何度も立ち止まりそうになりながら、僕は傘をかぶって、空を見上げる。
気持ちを引きずりながら、歩き続ける。
親友からのメール。
もし、死ぬんでも、この人にだけは連絡したいって相手だった。
読む。
どうやら僕は心配されてるらしかった。
あぁ・・・そう。
って、思った。
今更。
僕は、その人にだけ、メールを返す。
ありがとう。
ごめんね。
そんな感じだったかなんて、そんなこととっくに忘れた。
いや、その時のことをあまり覚えてない。
メールの内容とか、色々。
けど、自分の行動だけはしっかり覚えてる。
暗い道を歩きながら、何度死を願って、立ち止まりそうになりながら、歩き続けた。
泣きそうになり。理解できなかった。
どうにかしたかった。
しばらく歩く。
親友が心配してた。
でも、僕は其処にはいない。
母に電話をした。
僕は、「ヤだ」とだけ良い、電話を切った。
家になんて帰りたくなかった。
しつこくかかってくる。
もう一度だけでる。
「今どこにいるの?みんな心配してるよ」
みんなって、誰?何で?僕の声なんて聞いてくれないのに。
僕って完璧にいじけてる。
「A駅の近く」
「ホントに?どうやって帰ってくるの?」
「自力で・・・」
「信じられない、警察に電話する」
そうか、やっぱり、信じられないんだ。
「良いよ、電車で帰るから」
僕は、諦めてそう言った。
泣かないって決めてる。
駅で電車に乗ってしばらくするとすぐ自宅の最寄り駅。
僕は駅から降りて、其処からどうやって帰ったのか覚えてない。
所々、変な道を通って、びっしょり雨に濡れながら帰ったことだけを覚えてる。
自分の考えなんて思い出せない。
ただ、泣きたくて。
死にたくて、何もしたくなかった。
帰るのさえ、面倒で、何で自分がここにいるんだろうって、思った。
雨が心地よかった。
多分、その時既に自分は死んでた。
ゆっくりと、家に帰る。
帰りたくない気持ちを引きずりながら。
ドアを開け、中にはいる。
いやだった。
何で、生還しなきゃならないんだって、思った。
僕は決めたはずだ。
今日、雨の中死ぬことを。
なのに、何で、玄関に立ってる。
誰にも話しかけさせる暇もなく、部屋にはいる。
びっしょりだったけど、関係ない。
靴下を脱いで、服を脱いで、布団の上にうずくまって、流れるのは涙。
多分、涙。
髪が濡れて、雫が落ちて、多分、雫じゃない。
止まらなくなる。
何もかも。
僕は、泣き続けて、母が部屋に入ってくる。
「何で、泣いてるの?」
「知らない」
僕は涙を拭いながら答えた。
「話してごらん」
いやだった。何もかも、死ねなかったから泣いてる。
だから、僕は嘘をついた。
「いやだったから、何もかも、仕事も、家も」
僕の口は嘘を容易く吐き出す。
僕は、自分の居場所がないような話をして適当に丸め込んだ。
本当は違うのに。
一部分を上手く塗り固めて、吐き出した。

これが、あの時の空白の時間のすべて。