ひとりがたり

日常のもの・こと・妄想など

88.髪結の亭主

「景太郎様、今日も私のために髪を結ってくださいまし」
「今日は、どのようにしたらよいかな?」
色白で豊かな黒髪をした女を座らせると、景太郎は、櫛と椿油を机の上に並べた。
「景太郎様のお気の向くまま、どうぞ、お好きなように」
景太郎は苦笑し、女の髪を櫛でとく。
「それでは、私が困ってしまいますよ、女性にとって髪は命でしょう?特に、貴女の御髪が私の所為で世間の噂になっては困ります」
「かまいません、それに、貴方と私とのことなんて既に城内に知れ渡っております。髪結いの亭主と、早良之守の娘が出来てるともっぱらの噂です。」
「そうですか・・・噂には、困ったものですね、よりによって、私などと・・・失礼にも程があります。貴女様のような美しい方と、私のような下銭な者とでは身分が違いすぎて、貴女様に失礼ですよ」
景太郎は微笑み、女の髪に椿油をしみこませた。
先ほど焚いた白檀の香りが部屋に甘く残っている。
女は髪をとく、景太郎の手を掴んだ。
「景太郎様、何を言っておられるのですか?私は貴方様のことを愛しゅう思っております。それなのに、貴方様は私の気持ちを無視なさる。そんなに私が嫌いか?ならば、髪など結いに来なければいいのに」
女は景太郎の手を掴んだままそう言い放つと、再び景太郎から目をそらした。
景太郎は、櫛を丁寧に机に置くと、女の手を両手で握った。
「貴方様のお気持ちは、痛いほど存じておりました。しかし、貴方様は上様にお輿入れされたいじょう、私なぞが出る幕ではございません。上様には、私の方から髪結いの仕事を辞めさせていただくよう、申し出ます。」
「なぜ、私のために、髪結いをお辞めになる?」
「私も、貴女様と同じお気持ちでした。これ以上、貴女様のお側にいたら取り返しのつかないことになってしまいます」
景太郎は、女の手をゆっくりと膝へ持っていき、自分の手を放した。
「ですから、これが、私にとって最後の髪結いになります」
女は先ほどまで景太郎に握られていた手の平で顔を覆い涙を流した。
景太郎はただ、微笑むだけ。
「なぜ、なぜじゃ、景太郎様。髪結いまでお辞めになることはないのに・・・」
「いえ、貴女様の髪を結えないのなら、私が髪結いで居る理由なんて無いのです。」
女の髪を優しく撫でるように、櫛ですく。
「貴女様によくお似合いの、美しい黒髪です。これが最後かと思うと、少々寂しいものですね」
「私は、早良之守の養女になる前景太郎様の住んでいた長屋能都なりに住んでいた頃から、景太郎様を愛しゅう思っておりました。なれど、私はその気持ちを伝えられなかった。遅すぎたのです。」
「遅すぎた、なんて事はありません。二人の気持ちが通じおうただけで良いではないですか。どうか、お幸せに」
髪が結い終わり、景太郎が机の上の道具を道具箱にしまう。
そして、景太郎が挨拶をし、部屋を出る直前、
「景太郎様も、どうかお幸せに」
と、女が呟いた。
景太郎は笑いながら頭を下げた。