ひとりがたり

日常のもの・こと・妄想など

32.鍵穴

私はこのお屋敷で長い間、執事をしておりました。
執事と言っても、このお屋敷に執事は私しかおりませんので、ただのお手伝い、又は家政夫
とでも言うのでしょうか。
執事と言うには、もったいないそんな仕事をさせていただいております。
ある日のことで御座います。
私がいつものように、夕食の買い物を終えお屋敷に帰ってきたときのことで御座います。
旦那様の書斎から、怪しげな物音が聞こえたので、私は柄の長いモップをもって(もちろん武器としてで御座います)、旦那様の書斎をノックしました。
私がノックすると、物音はぴたりと止みました。
おそるおそる、様子をうかがうために鍵穴を覗こうとしたところ、奥様に肩を叩かれました。
私は、喉から心臓が飛び出んばかりに驚き、しばし呆然と奥様を見つめてしまいました。
そして、落ち着いた頃に、事のあらましを奥様に話しました。
奥様は、ゆっくりと旦那様の書斎を開けます。
私はいつ暴漢が襲いかかってきても良いように、モップを構えました。
ドアが開ききったところで、奥様を背に、私は書斎をのぞき込みます。
つい、いましがたまで書類などを漁るような音がしていたのですが、書斎はもぬけのからその上、特に変わった様子もありませんでした。
私はほっとし、胸をなで下ろしました。
奥様も、ほっとしたようでした。
しかし、あの音は何だったのでしょうか、私はそれ以来旦那様の書斎が気になって仕方がありませんでした。
それから一月ばかり経った頃でしょうか。
また、あの音が聞こえたのでした。
今度こそ、その正体を確かめるべく、私は、鍵穴から旦那様の書斎をのぞき込みました。
ゆっくりと、片目を瞑り、鍵穴へ片目を近づけていきます。
徐々にピントがあった頃、私は信じられない光景を見てしまったのです。
なんと、そこには、日本足で突っ立った犬が旦那様の書類やら何やらを広げて仕事をして居るではありませんか。
しかも、犬は旦那様のスーツを着ていらっしゃいます。
やわらかそうな肉球のついた手で器用に書類を整理しているようでした。
その様子が、何とも可愛いやら不気味やら面白いやらで私はついつい見入ってしまいました。
そうすると、犬は私が鍵穴から覗いているのに気が付いたようでした。
「うむ、誰か覗いておるぞ。人間の匂いがするな」
私は驚きつつ、鍵穴から目を離しました。
私が書斎の扉から立ち去ろうとするのと、扉が開くのはほぼ同時でした。
「やはり、執事だったか」
犬は二本足で立ちながら、笑うような顔をしておりました。
「驚くことはなかろうに、ワシだ、この屋敷の主だ」
私は、さらに驚きながらその犬に聞き返してしまいました。
「あ、え、その、なんと言って良いのか解りませんが、あなたがこのお屋敷の主だと・・・?おっしゃっている意味がよく分かりません。それに、犬は喋る物でしょうか?あなたが私の幻覚だと良いのですが・・・」
「何を言ってるんだね、君は。」
私は、何がなんだか解らなくなってしまいました。
私の頭がおかしいのか、はたまたこの犬がおかしいのか。
「それより・・・早くここから出た方が良いなぁ・・・」
犬、いやいや、ご主人様はしっぽをふりふり、耳をぱたぱたさせながら呟きました・・・そして、私の背後を観て、しまった、と言う顔をしたので、私は、自分の背後を振り返りますと。
なんと、そこには奥様の格好をしたネコが立っていたのでした。
そう、私のおつとめしていたお屋敷は、狐狗理妖怪の類が住む、お屋敷だったのです。