ひとりがたり

日常のもの・こと・妄想など

81.ハイヒール

アパートの僕の隣の部屋に住んでいるのは、女性だ。
背の高いすらっとした美しい女性。
毎日夕方ハイヒールを履いて出かけていくから、多分水商売の女性だろう。
出勤時間が僕の帰宅時間と重なるときがある。
そう言うときは、軽く挨拶なんてしたりするんだけど、声もとても美しかった。
なんて言うか、古い表現かもしれないけど、鈴の鳴るような声。
とにかく声も美しい。
朝方、その女性のハイヒールが奏でるこつこつという音を聞いて、目を覚ます。
鍵を開けて、いつもすぐ風呂に入って、眠りにつくらしい。
僕は、もう、病的なくらいに彼女のことが気になっていた。

ある日、珍しく彼女が休みのことがあった。
本当に、珍しい。
彼女が休みを取るのは、僕が知っている限り一年に一度か2度程度だ。
本当はもっと沢山休みを取っているのかもしれないけど、僕の知ったところではない。
丁度、その休みは僕の休みと重なっていたので、僕は一日中彼女を観察することにした。
彼女が手紙をとりにポストへ向かっている。
僕も同じくポストへ向かう。
「こんにちは」
女性の美しい声。
「あ、こんにちは、今日はお休みですか?」
少し緊張する、僕の声、わざとらしくは聞こえなかっただろうか。
女性は、微笑みながら、僕の問いに答える。
「えぇ、久々にお休みをもらえて・・・」
彼女の目を、僕は見つめた。
彼女も見つめ返す。
「あ、あの・・・唐突で済みません、僕と、おつきあいを・・・」
あぁ、言ってしまった、僕は、弾みで言ってしまった。
言ってから、頭の中が真っ白になる。
女性はきょとんとしたまま固まっている。
やってしまった、もう駄目だ。
「い・・・いや、いいんです、聞き流してくださって、結構です」
僕は彼女に背を向け、震えながら声を絞り出した。
「いいんですか?私でも」
女性は僕を引き留めて、僕の前に回り込んで、また、あの魅惑的な笑みを僕に向ける。
僕は少しあたふたしながら、彼女を見つめた。
「・・・いや、ホントに聞き流していただいて・・・」
「私の質問に答えてください、本当に、私でいいんですか?」
僕は、彼女の迫力に押され、少し弱気に、「はい・・・」と返事をしてしまった。
彼女は勝ち誇ったように微笑む。
「今、はい、って返事しましたね?」
「はぃ・・・・」
また、僕は返事をする。
「宜しい、では、これを契約と見なします。」
僕は困惑する。
「い・・・一体何のですか?」
女性は、僕の顎を指先でクイッとあげて妖艶に微笑んだ。
「私との、悪魔との契約です」
今度は僕がきょとんとする番だった。
悪魔?この世の中に、悪魔なんて、こんな技術の発達した世の中に悪魔なんて存在するのか?
「またぁ・・・馬鹿なこと、言わないでくださいよ」
「人のこと、よく知らないのによく言いますね。私、悪魔なんですよ。本物の、悪魔なんです。私の力で、力の弱い人間なんてあっと言う間に木っ端微塵に出来ますし、精神的に追いつめることも可能です、あぁ、あの、映画に出ていたエクソシストの悪魔とはまた別ですが。」
僕は引きつった笑みを浮かべる。
この女性は、頭のかわいそうな女性らしい。
「さぁ、この契約書にサインを、そして、私に口付けをしてください。それで契約成立です」
言い終わらない内に、僕は逃げ出した。
この女性が、本当に悪魔かどうか知らないが、こんな女性まっぴらだ、そして、多分この体験は僕にとってトラウマとなるだろう。
あぁ、ついてない、最悪だ。
もっと最悪なのは、人を見る目のない、僕だったのかもしれない。