ひとりがたり

日常のもの・こと・妄想など

72.喫水線(船舶が静水上に浮かんでいる時、船腹が水面に接する分界線。)

喫水線から下の部分、僕の記憶は深く深く沈み込んで、船体の重さで浮上出来ないでいた。

太陽のまぶしさで目を覚ます。
気分良好。
秋の冷たい風が、頬に当たる。
ここは何処だろう。
辺りを見回す。
分からない。
けれどもここは、船の甲板のようで、手すりの向こう側は、見渡す限りの水平線と、白い雲と、青空。
そして甲板の上には人が死んでいる。
頭から血を流して。
僕は手に、銃を持っていた。
死体に近寄る。
左足と、頭に銃創。
開けたままの瞳が天を仰いで白目をむいていた。
袖口に硝煙の香り。
自分が撃ったんだと、実感する。
きっと銃声がしたはずだと、そう思うのだけれど、誰も人が来る気配はなかった。
僕は船の中を少しだけ確認してみることにする。

小型の船。
マイアミあたりに遊びに来た、お金持ちが乗りそうな豪華な作りのクルーザー。
船室には、冷やされたシャンパンと、グラス。
そして、フルーツや、たくさんの食べ物。
何かのパーティーだったんだろうか。
しかし、人の気配も、人が居た形跡もない。
ただ、食べ物だけが用意されているだけだった。
つまり、僕とあの死体の男、二人きり。
僕って誰だ?
ガラスに映った顔をのぞき込む。
知らない。
こんな顔知らない。
僕は、誰だ。
僕?そもそも僕は男なのか?
何もかもが、思い出せそうで思い出せない、喫水線の下なのだ。