ひとりがたり

日常のもの・こと・妄想など

写真と詩について

私の独断と偏見の意見をひさびさにこのお題で述べてみよう。
他愛のない話なので、長文を読むのが面倒だという方はスルーしていただいてかまわない。

詩について。
今日はお休み。
言葉を並べるのに迷いがあるから。
ここ数日そんな感じで、書いては消しを繰り返している。
これは充電期間だと考え、今は写真の夜練に徹している。
最近気になっているのが、語彙の少なさ。
何かの本で読んだのだが、『どんなにむずかしい言葉をつかっても相手に伝わらなければ意味がない』そんな言葉を気にしつついつも文章を書いているわけだけども、そこが一番むずかしいところなのだ。
わかりやすい言葉で伝わる言葉を書くためには『基礎』がしっかりしていなくてはならない。
なんというか、つまりは、『言葉をたくさん知っていなくてはかけない』ということ。
難しい意味の言葉でも、必ず簡単で同じ意味の言葉があるものなのだ。
それを自分の引き出しから持ってこられるか、引き出しにどれだけの言葉があるか。
考えてみて、私は引き出しに詰め込んである言葉が少ない上、引き出しの中身を整理整頓できていないものだからわかりやすい文章を引っ張り出せないように思う。

あまり詩とは関係ないのだけど、文章について言えばブログのメッセージやコメントを書くときも、気持ちを伝えるための言葉がなかなか思いつかなくてありがちになってしまう。
それに、相手の顔が見えない状況で気持ちを文章に書き出すのはとても難しいとも感じる。
こちらは何気なく書いたつもりでも表情が見えないから相手には『重大なこと』となってしまう場合もある。
それがとても怖いことだと思う。
そのように、ネットの中というのは表情が見えないから、行き違い、すれ違いがおこり、トラブルが発生する場所でもある様に思う。
うーん、気をつけなくては。


写真について。
最近再び夜練をしている。
といっても、ただ父がダイエットのために始めた散歩に便乗して気になったものを撮って回るだけなのだけど、夜ひとりで歩くには物騒なところも歩けて大変面白い。
しかし、父と一緒だと撮影にスピード感が必要(のんびりしていると置いて行かれるため)なので、感度を上げっぱなしですべてプログラムオート。
通称バラ屋敷はゆっくり撮れるのでマニュアル撮影もした。
しかし、夜の送電線&電線がまたかっこいいんだ!これが!
ファイルが完璧電線マニア化してます!
父の背中を追いかけながら、きょろきょろ歩いたり、普段あまり話ができない父と話ができたりして、意外に新鮮だ。

ふと、自分の写真の撮り方について意識をしてみる。
私は絵を描くことが好きで、たまにデッサンなんかをしてみたりしていた。
ものを忠実に写す。
というところでは似通っているかもしれない。
私はそのような気持ちで、そう、風景のデッサンをスケッチブックにでもするような軽い気持ちで撮っていた。
というのも、いちばんいちばーんはじめに写るンですを持ち始めた頃は中学生で『漫画を書くための資料作り』というのが撮影の目的であった。
資料にしたい景色をただ撮るだけ。
そのうちに空が気になって金網が気になって電線で・・・で、現在に至る。
いつの間にか、気になるもの、誰かに見せたいものを撮ることにはまっていたわけだ。
なんというか、絵の延長線上に写真がいる。
いまだにそのくせというかそういのがあり、加工もいとわないわけで・・・。
あれれ、支離滅裂になってきた?
とにかくまぁ、あれなのだ、私の画力では表現できないものが写真ではたやすく表現できる。
たやすく表現できるはずなのに、カメラの機能や原理やなんかいろいろカメラについて知らなさすぎて、これじゃ画材を持ってるのにその画材の使い方を知らないみたいで煮え切らない。
だからもっとべんきょーするのでーす!

一眼持ち始めて約半年の決意なのでした。


最後まで読んでいただいた方へ、長くなりましたがありがとうございました。
以上。


追記・あと、驕らない、いつも謙虚にすること!でもって、一球入魂と原点とハングリー精神(?)を忘れないこと!(ザ・体育会系)